数学帝國への逆襲 (西春自習質問教室のブログ)

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楚漢の抗争、追加3

楚漢の抗争、追加3.「半渡」

韓信の一番有名な戦法は「背水の陣」だが、
二番目が、これだ。

韓信が燕を、そして斉を平定すると、
項羽韓信征伐を、項羽第一の部下である龍且(りゅうしょ)に命じる。
龍且は、項羽の部下だった頃の韓信を知っていて、
あいつは豚殺し(肉屋)の股をくぐった臆病者だ、と侮っていた。

韓信軍と龍且軍20万は濰水という川を挟んで対峙したのだが、
(川を挟んで対峙するのは陣法の基本)
韓信はその前夜、濰水の上流をせき止めて水の量を減らしておいた。

龍且は項羽を師とする猛将で、
水が少ないと見ると先頭に立って突撃してきたのだが、
韓信は怖れて逃げると見せかけて、龍且軍が川を半分渡ったところで、
上流の堰を切り、溜まった水を流した。

怒濤になって押し寄せる水に龍且軍の中軍は流され、
後軍は、濁流に阻まれて渡れなくなってしまった。
無理矢理背水になったのは龍且の周りだけで、もちろん別働隊などいない。
向こう岸に取り残された軍は、龍且がなぶり殺しになるのを見るのみだった。

このことから、止めた水を流すのは半分渡ったところで、ということになり、
「半渡」という言葉は、軍法用語になった。

この応用が、日本が誇る軍神上杉謙信のデビュー戦だ。
(ネットを探してもないので、真偽不明確なんですけどね)

上杉謙信が、まだ長尾景虎だった頃、
同じように、上流をせき止めた川を渡って攻めてきた大軍に対して、
景虎の周りは「半渡」を知っているので、彼を急かしたが、
若き景虎は「命令は私が出す、火で暖まっておけ」と落ちついていた。

周りがヤキモキしている間に、敵の大軍は川を渡りきってしまった。
韓信と何が違うのか?
上杉謙信は、越後だ。
冬の新潟の川を渡ってしばらく待っていた軍が、戦えるわけがない。

充分に体を暖めた長尾軍が、景虎の命で突撃した時、
濡れて冷えて凍えた敵は、反撃することもできなかったという。
せっかく渡ってきた冷たい川を、また渡って逃げていくしかなく、
長尾景虎圧勝である。

これは「半渡」と、
「佚(いつ)をもって労を待つ」
孫子より。味方を充実させ、敵の疲労を待って戦う)
という兵法の応用だ。
しかも結局堰を切らずに敵をそのまま逃がすのは、
勝てそうな敵を「背水」にして必死の力を出させない、
という配慮もある。

孫子韓信2の混合ミックス。
こんなことをあっさりできるなら、周りから軍神と呼ばれますわな。