中国史19B.明(続き)
北虜南倭からですね。
まず北虜。
明は建国者が貧民だったので、歴代最悪のケチな政権で、
馬の売り買いで北方騎馬民族とモメてばかりだった。
[小氷期]
ひとつ擁護だが、
冬が寒くなってコロナやインフルが流行るように、
元でペストが流行った頃から、地球は小氷期に入っている。
文字通り小さな氷河期で、1℃にも満たない気温下降なのだが、
作物が取れなければ明もケチになり、寒いから騎馬民族も短気になる、
この小氷期が終わるのは、幕末だ。
ここで登場するオイラートは、モンゴルの近くにいた部族で、
一度はチンギス・ハンに臣従していたが、
モンゴル帝国の分裂で復活し、北元のハンを殺して強勢になる。
エセンの代で、明の親征軍との戦いで正統帝(英宗)を捕虜にした。
土木の変である。(どぼくは地名、1449)
歴代中華皇帝で唯一異民族の捕虜になるという大恥をかいた英宗は、
宋以来の言論の自由で、宦官にそそのかされて親征したらしい。
オイラート側も、明を征服することが目的ではなく、
英宗は、後に和議が成立して送還された。
とはいえ、エセンが調子に乗ってエセン・ハンを名乗ったので、
チンギス・ハンを神聖視しているモンゴル系部族から反感を買い、
オイラートは急速に力をなくしてしまった。
替わって強勢になったのはタタール。(中国日本名、韃靼)
これももともとモンゴル系の一部族を意味する言葉だったのだが、
北元のフビライ系の子孫たちで、モンゴルの末でもある。
だいたい、テムジンの名前はタタールの武将から取ったものだ。
王の名はアルタン・ハーン。(チンギスの末裔なので名乗れる)
彼も一度は北京を包囲した、庚戌の変である。(こうじゅつは干支、1550)
ただ、モンゴルももう中華を支配する野望まではなく、
土木も庚戌も、結局は馬を高く売ることが目的のようだ。
[タタール]
タタール ≒ モンゴル、と思ってもよいのだが、
タタール人は、モンゴルだけでなくロシアの各地に存在する。
男は賢く女は可愛い、ノーベル賞級の科学者が何人もいる。
モンゴルが強かった頃から続く学習能力だ。
さらにその馬肉の料理がタルタルステーキ(生でもステーキ)で、
かけられたソースがタルタルソースだ。
そして南倭。
もちろん倭寇のことだ。
前期倭寇は、瀬戸内海から九州の海岸や島に住む人たちだった。
日本人がわざわざ朝鮮や中国を荒らすなんて、考えにくいが、
この時代だけは違う。
なぜなら「元寇に備えて造った頑丈な舟があるから」だ。
使い道は海を渡るしかない。
で、海を越えて明に商売に行くと、海禁策でできないと言われる。
仕方がないのでそのへんを荒らして帰る、というわけだ。
特に対馬や壱岐の人は、元寇で叩きのめされた人たちの子や孫で、
そりゃあ良心はとがめない、ますます頑丈な舟を造り倭寇船団になる。
島国の中だけが天下の日本人も、この頃だけは手段も動機もあった。
[応永の外寇](1419)
いい加減にしろよ、と李氏朝鮮は対馬を攻めた。
日本と朝鮮が単独で戦った、歴史上唯一の戦争だ。
朝鮮半島の国が海外遠征をした唯一の戦いらしい。
元寇の恨みがあるにせよ、悪いのは日本、朝鮮は被害者側だ。
しかも、倭寇船団が明に出向いたスキに対馬の本拠地を攻めるという、
韓信や諸葛孔明に、どや、と言える完璧な作戦で、
対馬の人たちは完全に引っ掛かってしまい、倭寇の帰還と勘違いする。
それで、なんで負けるんだか。
2万の李氏朝鮮遠征軍 vs 対馬の留守番数百人、だぞ。
ケタが二つ違う、孫子でも勝つことは無理だって言うよ。
リアス式海岸が、とか、山岳ゲリラが、とか理由を付けているけど、
いったいどうやったら負けることができるんだ?
ただ、倭寇の被害はその後も朝鮮半島に伝えられることになり、
現代の安倍首相まで、反感を持つ韓国人から倭寇と呼ばれている。
やれやれですな。
日本人は調子に乗るので、その後倭寇は活発になるが、
足利義満が勘合貿易のため、明に言われて取り締まりを厳しくし、
前期倭寇は徐々に沈静化する。
すると次は、倭寇なら好き放題だ、と思った中国人が真似をする。
それが後期倭寇。(偽倭と呼ばれた)
当時の日本人の刀、または真似をして作ったものを倭刀と呼ぶ。
(倭刀術もある、倭寇の戦い方も対北虜戦に活かしたようだ)
【旅行記11】
唐代に始まった飲茶(ヤムチャ)の習慣は、明代に発展した。
明は江南から興った国なので、南方から北京にまで広まった。
私も、本格飲茶の店に行ったは行ったのだが、何も覚えていない。
座った席の後ろに水槽があり、水や魚ではなく大蛇がうごめいていた。
食材だ、と言われればそうなのだが、味なんてわかるか!
これだけだと旅行記にならないので、ついでに書くが、
中国では、デパートの地下や屋上の店の料理人が、
普通に喋りながら、手延べ麺や刀削麺を作る技術を持っている。
でもそこはデパートで、そんなに美味くはなかったけどね。
下っ端の下ごしらえ専用の女の子も、包丁は普通に使える。
技術は凄いが、やはり皆、喋りながら作っている。
料理も点心も、唾液が練り込まれているだろうな、とは思う。
(旅行記11終わり)
さて、ケチな明において、トップオブザケチは万暦帝(神宗)だ。
彼は張居正を登用して効果を挙げた、と習うかもしれないが、
(人頭税と地税を銀納する一条鞭法もこの頃始まった)
張居正が死んだらやる気をなくし、皇帝自身が25年間政治を見ない、
という空前絶後の世界記録を持っている。
25年後に万暦帝が朝廷に現われたのは、日本の朝鮮出兵の時だという。
君主が君主なら部下も部下で、
東林党と非東林党に分かれて論争を繰り返すのみだった。
(↑顧憲成が無錫に建てた民明書房、もとい東林書院に集まった政治家)
言論の自由は、ただお互いの主張を批判、中傷するだけに成り果てた。
北虜南倭があり、官僚はただ議論を繰り返し、宦官外戚の腐敗がある。
皇帝は蓄財ばかりで公共事業は停止、失業者は溢れ反乱は頻発する。
明は滅びるべくして滅びた、直接滅ぼしたのは李自成の乱だ。
李自成は北京を攻略すると、国号を「順」とし、皇帝になる。
朱元璋と異なったのは、北東から女真の大軍団が迫っていたことだ。
こういう事情なので、宋と異なり忠臣が出るようなことはなかったのだが、
明最後の崇禎帝が裏山で自殺する時、李自成軍に向けて書いた遺書がある。
「我が臣下を殺すのは仕方ないが、我が百姓は一人も殺すな」
というものだ。(追加1参照)
さすが貧民代表朱元璋の末裔、最後はキメてくれました。
◎明の文化◎
元のところで書いた「三国志演義」「水滸伝」「西遊記」の完成は明代だ。
さらに水滸伝のスピンオフ作品である「金瓶梅」が出て、
合わせて「四大奇書」と呼ばれる。
儒教では、南宋の陸九淵の影響を受けた王陽明が陽明学を始めた。
心即理と知行合一を説くもので、日本の維新志士たちに影響大だ。
知行合一とは、即ち実践重視だからだ。
その実践重視は、陽明学すら批判するようになる。
黄宗羲や顧炎武は考証学を始めたが、
これは確実な文献のみから古典を研究する学問、
つまり、手法が現代的になってきた。
実学に至っては、ほとんどこれは自然科学で、
何が画期的かと言うと、学問に正邪の概念を持ち込まなくなったことだ。
中国人は、ここに気がつくのが遅かった。
徐光啓「農政全書」(農学)「崇禎暦書」(暦学)、
李時珍「本草綱目」(薬学)、宋応星「天工開物」(産業技術)
徐光啓は、中国初の民権思想家でもあった。