中国史、戦国追加1.「龐涓死於此樹之下」
韓信の話が好評だったようなので、
戦国時代の戦いで、面白い勝ち方をしたものを挙げよう。
主役の名を、孫臏(そんぴん)という。
諸子百家の兵家は、孫子(孫武)と呉子(呉起)のことだが、
実はもう一人、孫武の子孫の孫臏がいる。
孫武など存在せず孫臏の捏造ではないか、という説もあるくらいだ。
孫武は「臥薪嘗胆」の呉王闔閭に仕え、闔閭を覇者に導いた人だが、
孫臏は「鳴かず飛ばず」の斉の威王に仕えた人だ。
(本論の故事成語参照)
孫臏というのは本名ではなく、(本名は不明)
魏の国で親友と思っていた相手から罠にかけられて冤罪を被せられ、
両足切断の刑(これを「臏」という)にされたので、
自虐で、足斬りの孫、と名乗ったにすぎない。
(魏から脱出できたこと自体が奇跡的)
その元親友を龐涓(ほうけん)といい、魏の軍師だったので、
斉の軍師補佐になった孫臏は、魏が趙を攻めた時、
趙の救援要請に、魏の本拠地を攻めることで魏軍を引き返させた。
これは「囲魏救趙」という戦術のひとつになり、
日本の武田信玄などが、ちょくちょく実行したものだ。
でもこれは、ただの前フリである。
クライマックスに移ろう。
次に、魏が韓を攻めた時のことだ。
また斉に、韓からの救援依頼があったので、
前回同様、孫臏は兵を率いて魏の首都に向かった。
この時はもちろん龐涓も予想していて、
すぐに引き返して迎え撃とうとした。
すると、魏の首都に向かっていた斉軍も退却を始めた。
追撃戦の方が勝つ確率が高いのだが、相手は孫臏だ。
龐涓は慎重に斉軍の追跡を始めたのだが、
斉軍の陣地だったところを調べてみると、
後になればなるほど、次第に竈(かまど)の数が減っていく。
(遠征軍なので、地面に穴を掘って竈にして飯を炊く)
なるほど、斉の兵は弱いと聞いたが、逃げ出したな、
そう考えた龐涓は、精鋭騎馬部隊を連れて後を追った。
今こそ決着をつけてやる、と思ったのだろう。
注釈だが、
この頃の戦争は馬車と歩兵によるもので、
馬に乗って戦うのは、北方騎馬民族の影響で趙や魏が始めたものだ。
当然ながら孫臏は馬車だ、足が無いし。
日が暮れかけたあたりで、龐涓は部下から、
前方に柵が設けられています、という報告を受けた。
孫臏が追撃隊阻止のためにそうしたのだろう、
と龐涓がその場に行くと、
そこに目立つくらいの大木があって、木の皮が削られ、
板のように白くなった部分に、何か書いてある。
しかも、自分の名前のようだ。
実はそこから少し離れた山かげに、孫臏は伏兵を置いていた。
兵数は1万だの2万だのではなく、数千にすぎない。
ただその伏兵に、孫臏が下した命令は、
「今夜、大木の辺りに火が見えたら、それに向かって矢を放て」だ。
ついでながら、竈の件も孫臏がわざとやったことだ。
龐涓に、先頭を走らせるために。
龐涓は星明りしかない暗がりで、
何が書いてあるのか、と松明(たいまつ)に火をつけて大木を見た。
その幹に書いてあったのは、
「龐涓死於此樹之下」(龐涓この樹の下において死す)である。
直後に、暗闇から飛来する無数の矢に龐涓は斃れ、
将を失った魏軍は、総崩れで退却した。
これを馬陵の戦いという。
魏は衰退し、斉は秦と肩を並べる強国に発展することになる。