中国史12.南北朝(316~589)
正確には南北朝は北魏の北朝統一からだが、
南朝に書くべきことが少ないので、五胡十六国も同一視して書く。
①北朝
匈奴の劉淵の漢が、漢民族にも他民族にも認められるはずがなく、
匈奴、鮮卑、羯、氐、羌の諸民族が勝手に国をつくる時代になった。
これを五胡十六国時代というが、細かい国まで数えると二十国を超える。
その中で、氐族の建てた秦(前秦)が華北をほぼ統一し、
全国統一戦の淝水(ひすい)の戦いで東晋に完敗したので、多少遅れたが、
鮮卑族拓跋氏の建てた魏(北魏)によって統一され、北朝が始まる。
[淝水の戦い](383)
前秦軍60万vs東晋軍8万の戦い。
普通に戦えば勝つのに、前秦の皇帝苻堅は人道派の主君で、
降参した武将を殺さずに配下にし、兵もなるべく死なせたくないからと、
やられて逃げるふりをして東晋軍が追ってきたところを叩こう、として、
ふりだったのに、降将の裏切りと群集心理で本当に敗走してしまうという、
何だかわけのわからない愚かな敗因の戦いです。
皇帝だの王様だのが下手に純愛派や人道派だとおかしくなる、という教訓。
北魏は三代太武帝が華北を統一(442)し、六代孝文帝が洛陽に遷都(493)する。
ただ、後に元のところで詳しく述べるが、北方騎馬民族には分裂グセがあり、
北魏は、その後東魏と西魏に分裂し、
東魏は北斉に、西魏は北周に取って代わられる。
周と春秋戦国を勉強していれば、北斉と北周のだいたいの位置はわかる。
そして北周の貴族から、隋の楊堅、唐の李淵と李世民が出て乱世は終わる。
南朝の特長は文化だが、北朝は制度が大発展した。
上の六代孝文帝は、画期的なシステムを始める、均田制だ。
全国に隣長、里長、党長を置く三長制と合わせて実施し、
財源を整えたことが、隋唐の統一に繋がったと言える。
さらに北朝は異民族ゆえの国際性があり、仏教の発展をもたらす。
高名な僧としては、仏図澄と鳩摩羅什がいる。(五胡十六国時代)
鳩摩羅什は最初の三蔵法師で、妙法蓮華経(法華経)の翻訳者だ。
敦煌の石窟寺院もこの時期に作られたが、
道教の反発を招き、寇謙之の献策で北魏三代太武帝は廃仏を行った。
(三武一宗の法難の最初、五代十国参照)
それでも仏教は屈せず、雲崗と竜門に石窟寺院を造営し、
中国禅宗の祖である達磨も、この頃にインドから来て盛り返している。
日本の仏教美術にも、北魏様式と言われて影響大である。
②南朝
晋の皇族司馬睿(元帝)が呉の地に逃げて始めたのが東晋。
首都は建業だが、西晋の皇帝の名とかぶるので建康に改名した。
南朝には、特に書くべきことはない。
北朝との戦いで活躍した将軍が実権を握り、禅譲を受けて即位、
今までの皇帝一族は皆殺し、という行動が繰り返されただけ。
東晋の後は、宋→斉→梁→陳と続く。
中国人は、紙も火薬も羅針盤も活版印刷も発明している。
独創性においては、地球人ナンバーワンと言ってもよいと思う。
だが、学習はしない。
南朝は、同じことの繰り返しなのだ。
5つの王朝が平均54年、宋斉梁陳だけなら平均42年だぞ。
皇帝になる、というのは男として最高の夢かもしれないが、
50年後に一族全部皆殺しになるのに、誰がなりたいものか。
それを学習できないのが、中国人という生き物だ。
【旅行記5】
領土が広くても中華を治めなければ地方政権だ、と前に書いた。
食生活も違う、華北は麦、華南は米が中心だ。
ただ、朝ご飯はたいがい饅頭等で、専用の店がどこにでもある。
美味かった。
皮のギリギリまで具の詰まった肉まんが、食べてもこぼれない。
今まで食べた全てのものの中でも、記憶に残る意味では最高位だ。
町の片隅の夫婦でやってる8畳くらいの食堂の味だぞ。
漫画や雑誌に書いてあるグルメではなく、推奨できる本物の味だ。
全国のコンビニ経営者の方、申し訳ない。
あれを食べてから、日本の肉まんなんてゴミにしか見えなくなった。
(旅行記5終わり)
さて、南朝が遺したものに、文化がある。
三国の呉も合わせ、呉、東晋、宋、斉、梁、陳で六朝文化という。
詩人は陶淵明と謝霊運。
陶淵明「帰去来辞」は、帰去来を「帰りなんいざ」とした名訳で知られる。
この頃の文は、梁の皇族昭明太子が編集した「文選」に遺されている。
(・・と書いていた真っ最中に、2020年センターに謝霊運が出たよ)
さらに顧愷之(画聖、代表作「女史箴図」)、王羲之(書聖)が現われるが、
私は芸術方面は全く駄目なので、何が良いのかわからない。
あと仏教は南朝でも盛んで、
東晋の僧法顕がインドに行き、「仏国記」を書いている。