数学帝國への逆襲 (西春自習質問教室のブログ)

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中国史20A.清

国史20A.清(1616~1912)

近代史はわかりにくいだろうと思うので、清は全皇帝について書きます。
ABC分けです。

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中華人民共和国「固有の領土」の原型

建州女真ヌルハチ太祖)が力をつけ始めたころ、
ちょうど野蛮人(名前を豊臣秀吉という)が朝鮮を攻めていた。
金の二の舞は嫌なので、明は女真をわざと分裂させていたのだが、
秀吉がわざわざ目くらましをしてしまったわけだ。

ヌルハチは軍団を8つに分けて八旗とし、国号を後金)と定めた。
もともとの人口が少なかったので、良民を拉致して兵に組み込みながら、
騎馬軍団を率いたヌルハチは、明の山海関に攻めかかった。
(山海関は、万里の長城の東端)

そこで彼は不思議なものを見る。
鉄の筒が火を噴いて、味方が数名吹っ飛んだのだ。
すでに大航海時代は終わり、ヨーロッパ人が大砲を持ち込んでいた。
(常勝騎馬軍団 vs 南蛮渡来新兵器、中国版長篠の戦い
ヌルハチはその後死ぬのだが、この時の怪我が原因という説もある。

秀吉とも甲州武田とも異なったのは、後継者だ。
跡を継いだ二代目太宗ホンタイジは、モンゴル高原を手中に収め、
金より規模が大きくなったので、国号をに変える。
民族名も女真から、文殊菩薩信仰の国という意味満洲にした。
(「満洲」は民族名。後に満州国ができたので地域名にもなった)

満洲八旗の他に、漢軍八旗蒙古八旗を作り、
ヌルハチ以来の悲願である山海関攻撃を始めたのだが、
ホンタイジが脳内出血で急死してしまう。
だが、明の側にも異変が起こっていた、李自成の乱だ。

北京で即位した「順」国皇帝の李自成は、
山海関を守っていた明の将軍呉三桂に、降伏を勧告した。
やむを得ずそのまま「順」の将軍になる決意をした呉三桂に、
最愛の女性が李自成軍に奪われた報が届く。
(ドラマなら、チャラリ~、と効果音が入るシーンだ)

呉三桂は大砲を手土産に清に降伏し、共に明の仇を討つ行動に出た
三代目フリンはまだ若かったが、願ってもない口実というのはこのことだ。
ホンタイジの弟ドルゴンを中心に、清軍は山海関を越える。
「順」国李自成軍は大敗し、明の次の国号は、順ではなく清になった。
フリンも世祖順治帝となり、中華皇帝になる。
劉邦の時と比べてください、部下の出来ってのは大切です)

遼も金も、元すらできなかった中華安定王朝に、なぜ清はなれたのか。
順治帝以来、漢文化を勉強しまくったからだと思う。
もはや中華の主は学習能力のない漢民族ではない。
我が大和民族を含め、東夷に共通する長所は学習改良能力である。

清は、元のように満洲族が役人を独占しようとしたのを止め、
満漢偶数官制満漢併用制)を作り、漢民族と官僚の地位を折半する。
内閣制度や六部は明のものを引き継ぎ
明の軍隊は編成し直して緑営とした。

漢文化の真似をするばかりではない。
順治帝の行った清の発展への貢献は、宦官の政治関与の禁止だろう。
破ったら死刑、ポイントを押さえた行動と言える。

さらに満洲民族の我を通したのは、辮髪の強要だ。
髪の毛を頭頂部で結う、ラーメンマンの髪型である。
これも従わなければ死刑だが、例外は僧、無いものは結えない。
辮髪逃れの出家が続出したそうだ。

ひとつ問題があって、
順治帝の母親は、夫の弟であるドルゴンと再婚している。
北方民族には当たり前の風習も、順治帝はかなりショックだったようだ。
勉強中の漢文化では、あってはならないことだからだ。
順治帝(フリン)は母親の不倫に悩んでいたというギャグのような話。
(ドルゴンは順治帝の兄の未亡人も妻にした。さすがにやり過ぎ)

ドルゴンを粛正した順治帝も早死にして、清の第四代皇帝が、
唐の太宗と並び、中国史上最高位に評価される聖祖康熙帝だ。

康煕帝の根っこにあるもの]
康煕帝が名君たり得た理由は、前漢ラッキーマン宣帝と同じ。
子供のころに、病気を理由に民間に出されて育ったからだ。
順治帝の指名で、臣下たちが次の皇帝を迎えに来た時、
康煕帝は、近所の子供たちと遊び回っていたそうだ。
小説化するなら、題はこれだろう。
「おい、あいつ皇帝になったってよ」

康煕帝が即位したのは8歳だったので、しばらくは摂政がついたが、
15歳で親政を始めると、4年後に三藩の乱が起こる。

三藩の「藩」というのは、呉三桂他、建国に功績があった明の将軍を、
漢の郡国制の国のように、中国南部を封建統治させていたものだ。
康煕帝が廃止しようとして乱が起こったので、乱を起こさせたことになる。
だから歴史の勉強は必要だ、韓信と同じだと呉三桂は気づいていない。

呉三桂は、女真を追い出し漢民族の国を建てる、をスローガンとしたが、
おまえが女のために裏切ったのだ、と突っ込まれて、味方が少ない。
(この女性は結局呉三桂のもとを離れて余生を過ごしました)
部下は故地への避難を主張したが、康熙帝は断固討伐を方針にした。
三藩も、ついでに台湾まで康煕帝に平定され、清は盤石になった。

台湾は、明の滅亡後に反清復明活動をしていた鄭成功の根拠地だ。
清が中華を支配すると、それを認めない漢民族が、
華南のあちこちで明の皇族を皇帝に立てて反攻したわけだが、
その皇帝の一人から、明の姓である朱を名乗れと言われた鄭成功が、
オランダ人の築いたゼーランディア城を攻略したもので、
三藩の乱の2年後に平定された。(鄭成功の子の時)

康煕帝はその後、東進南下してたびたび国境紛争を起こしたロシアと、
初めての対等外交条約であるネルチンスク条約を結んだ。
彼は中華思想も克服していたことになる。

[暴れん坊皇帝ピョートル1世]
ネルチンスク条約の相手は、「ピョートル1世時代の」ロシアだが、
皇帝自身はまだ若く、彼の摂政が行ったことだ。
ピョートル1世は、後に大帝と呼ばれた人で、
彼の興味はロシアのヨーロッパ的近代化にあり、東方には熱心でなかった。
もし逆なら、ピョートル大帝 vs 康煕帝は見ものだったと思う。
どちらも、歴史上最高位の皇帝同士だ。

ピョートル1世の改革は、後に変法の康有為が手本としたもので、
彼はネルチンスク条約の8年後にヨーロッパに使節団を派遣するのだが、
なんとピョートル1世自身、正体を隠してついていった。
どういうことかわかるかい?
日本なら、岩倉欧州使節団に明治天皇が内緒で加わった、ようなものだ。
しかも、技術を勉強するために、船大工として就職してしまう。
水戸黄門」や「暴れん坊将軍」は、テレビドラマだ。
本当にやった国家元首が他にいるのかどうか、私は知らない。
(2m13cmの長身で、あれはロシアの皇帝か、ってバレていたらしい)

あと康熙帝は、後に最後の遊牧帝国と呼ばれたジュンガルとも戦い、
モンゴル高原の清の版図を拡大した。
ただそのモンゴルやチベットの監督を理藩院にさせたので、
属国っぽくなり、中華思想的になってしまった。

強かっただけではない。
彼は儒者を重用して「康煕字典」「古今図書集成」を編纂した。
裏の理由は永楽帝と同じ、明の遺臣を活用するためだが、
単純に考えても立派な業績で、日本の漢字辞典のネタ本もこれなのだ。

康熙帝本人も、政務を終えると漢文化を勉強し、
下手な科挙合格者より古典に詳しくなったのだが、
加えて西洋の学問まで勉強していたらしい。
イエズス会の宣教師が、感動して康熙帝の伝記を出版したくらいだ。

次の五代雍正帝は、賭け事を禁止するとか堅苦しいところがあったが、
皇帝本人がもっと努力家なので、誰も文句は言えなかった。
彼は軍機処を設置して皇帝を補佐させたが、
軍機大臣は後に首相的になっていき、内閣は中国では廃れてしまった。

彼の始めた税制は、地丁銀
明の一条鞭法を簡略化して、人頭税を土地税に組み入れたものだ。
ロシアとはキャフタ条約を結び、
モンゴル地方の版図を確定させた。
雍正帝は、文字の獄をたびたび起こしたので、非情に思われがちだが、
リンカーンの百年以上前に奴隷解放をした人でもある。
中華料理最高峰と言われる満漢全席は、
漢民族満民族の融和を図るため、雍正帝の時代に考え出された。

雍正帝の功績の第一は、太子密建の法だろう。
後継者は公表せず額の裏に隠し、皇帝の死後に初めて明かされるようにして、
皇太子や他の皇子たちの出来次第で、書き換えることもあるというものだ。
皇子たちは必死で努力勉強し、怠け者はいなくなる。
(即位した人とできなかった人の兄弟間のしこりは残ったようです)

ここは、まとめよう。
順治帝は、宦官の政治への関与を禁止した。
康熙帝は、儒者の活動を編纂事業を中心にした。
雍正帝は、後継者をめぐる闘争や暗躍を防いだ。
つまり、漢族王朝の悪いところをいくつもなくしてしまったので、
この後の清の皇帝は、名君とまでは言えないものの、
暗愚なお飾りの皇帝は現れなくなった。

発展した清王朝の恩恵を満喫したのが六代乾隆帝だ。
資料集他の絵で見ていただければ、
康熙帝雍正帝と比べて、着ているものが違う。
乾隆帝が外征を繰り返しても、国費に余裕があるので、
減税を繰り返したくらいで、清は史上最も暮らしやすい国になった。
(BGM推奨、Louis Armstrong「What A Wonderful World」)

まさに清の絶頂期だが、乾隆帝自身はたいしたことをしていない。
四庫全書」を編纂したことと、貿易港を広州に絞ったことくらいだ。
外征で清の領土は最大になったが、全盛期は衰退期の始まりなのだ。
乾隆帝自身、末期はボケて周りに迷惑をかけたそうだ。

さらにここで、人類史上最大の悪の組織が登場する。
名前を、大英帝国と言う。

産業革命後のイギリスは、清に貿易拡大を求めてマカートニー使節を派遣した。

茶、絹、陶磁器を中国から買うので、銀が一方的に中国に流れてしまうからだ。

しかし、83歳乾隆帝の回答は以下のようだった。

「清の領土は大きく、無いものは無い、貿易はしてもよいが欲しいものも無い、
綿製品をもっと買えとか、勝手なことを言うな」

確かに、その当時の清と欧州の繁栄の差はそのくらいあった。
だが、乾隆帝は間違っていた。
清にはなく、イギリスが清に持ち込めるものがひとつだけあったのだ。
阿片である。