中国史15.五代十国(907~960)
朱全忠の梁(後梁)から、五代は始まる。
後梁→後唐→後晋→後漢→後周。
平均11年。次の王朝ができると前の皇帝一族は皆殺し。
ネズミでも何度か電流を流したら、学習してそっちには行かないぞ。
予想がつくと思うけど、
後唐は「李」、後漢(こうかん)は「劉」という姓の人がつくった。
もちろん、唐朝の李や前漢後漢(ごかん)の劉とは何の関係もない。
ひとつだけ擁護しておくと、
黄巣が長安を攻めた時に、逃げ残った官僚や役人を虐殺して、
朱全忠に至っては、全員まとめて黄河に放り込んでしまったので、
安定王朝にしたくても人材がいない、という理由もあった。
【旅行記8】
黄河や長江を「海のようだ」と言う人は、下流にしか行っていない。
確かに河口付近は海水が入り込み潮の香りがするが、中流域は全然違う。
イメージとしては、
木曽川下流の川幅で、数倍の水が自動車と同程度の速さで流れている、
と思えば、近いかも。
全盛時のイアン・ソープでも、溺れ死ぬと思う。
しかも、ところどころに滝があり、やはり入場に保険金が要る。
滝の横には、安全? 何それ? と言いたげな細いロープしかない。
黄河第二の滝の間近で写真を撮った時が、私が死に一番近づいた時だ。
(旅行記8終わり)
後梁を始め、誰も唐の後を継いだ全国政権なんて認めないので、
地方の節度使が次々と自立し、主なものを十国あつかいしている。
特筆すべきは一点。
後晋を建てた時、後唐を滅ぼすために契丹(遼)の力を借りたので、
見返りに今の北京一帯(「燕雲十六州」というヤツ)を割譲してしまい、
この土地は失地として、ここから先に重要な意味を持つようになった。
契丹は、唐が滅びた頃に耶律阿保機(太祖)が出て大帝国を建設し、
二代目太宗になった頃で、この後、国名を遼と中国風にする。
独自の契丹文字も作り、中原進出に意欲を見せるようになった。
遼に始まり、金、元、清は、征服王朝と呼ばれている。
さて、五代にも名君が現われる。
後周の二代目世宗である。
彼は、脱税目的で僧になる者を強制的に還俗させるなど内治を整え、
(北魏太武帝、北周武帝、唐武宗と合わせて、三武一宗の法難という)
全国統一に乗り出したまでは良かったのだが、病気で死んでしまう。
世宗はまだ若く、三代目の幼帝では駄目だと思った武将たちが、
世宗第一の武将だった趙匡胤を皇帝に擁立し、
唐宋と、唐と併記されるまでになる宋が始まることになる。