中国史11.晋(西晋、265~316)
司馬炎は、全国統一(280)をしたので武帝という諡だが、
実は祖父の司馬懿仲達と親の代の司馬師、司馬昭が強かっただけで、
呉を滅ぼした直後の命令が、
この地方の美女を二百人選んで連れてこい、という変態オヤジ。
愛人が合計1万人いるエロオヤジが皇帝なんてやっていれば、
当然子供もたくさんでき(二十六男九女とか)、多くが王になる。
その王たちが、司馬炎が死んだら次は自分だと争うようになった。
これが「八王の乱」(290~)である。
ここでもう一度、匈奴が登場する。
冒頓の頃に最強だった匈奴は、その後東西に、そして南北に分裂し、
南匈奴の単于が、前漢ラッキーマン宣帝の時に漢に降伏する。
その後、漢が滅びたら後漢の、続いて魏、晋の保護を受けるが、
匈奴を味方に引き入れて帝位を争う漢族を見て、とうとうキレる。
だったらオレたちは漢の皇帝と兄弟の関係にある皇族だぞ、と、
晋を襲って滅ぼしたのが、永嘉の乱だ。(永嘉は元号、304~)
しばらく前から勝手に劉姓も名乗りだしたので、
国の名は「漢」である。(建国者は劉淵、後に「趙」に変える)
[中国人との付き合い方]
中国人はプライドが高いが、下手に出ると自分を大きく見せようとする。
南匈奴単于が前漢に降伏した時、宣帝は喜びのあまり兄弟の契りを結び、
その地位を王より上と認めて、兵と食料を手助けした。大厚遇だ。
メンツを立ててやれば、中国人は倍返しが当たり前だ。
その後元帝の頃に、その単于が漢の婿になりたいと願い出たので、
いろいろ手違いがあって選ばれたのが、王昭君。
西施、貂蝉、楊貴妃と並ぶ、中国四大美人の一人だ。
(中学国語「故郷」に豆腐西施の記述がある。貂蝉は三国志の創作美女)
[占田課田法]
西晋の土地制度、・・なのだが、
西晋自体がすぐに滅びてしまったので、内容がよく伝わっていない。
晋の統一は一時的なもの、というのが今の歴史の評価だ。
原因はどう見ても、エロオヤジ司馬炎の下半身の問題だと思う。
次の統一王朝隋が興るまでの乱世を、まとめて魏晋南北朝と呼ぶ。
[竹林の七賢]
俗世界の煩わしさを避け、竹林に集まって風流な議論を楽しんだ人たち。
こういう論議を、清談と呼んだのだが、
七賢の数人は官僚でもあったので、なんちゃって清談である。