数学帝國への逆襲 (西春自習質問教室のブログ)

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中国史9.後漢

国史9.後漢(25~220)

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後の五胡が出てきている

首都は洛陽
光武帝劉秀は、一言で言うなら「坊ちゃん」だ。
田舎貴族の三男で、初恋の人を後に皇后にしている。

赤眉軍緑林軍と同様の反乱軍に、兄と一緒に参加したら、
血統の良さと本人の堅実な性格から周りに推されて皇帝になる。

私はこれはもう、世界史上の奇跡だと思っている。
前漢初代劉邦は、ゴロツキだった。
後漢初代劉秀は、田舎の坊ちゃんだった。
蜀漢初代劉備は、筵織りの貧乏人だった。
自分が強かったわけではない3人が、周りに助けられて皇帝になる。
それが同じ血統から出ている。
皇帝になる遺伝子など、あるはずがないのに。
したがって、今でも中国日本を問わず「劉」は憧れの姓である。
ケンシロウの拳法の正式名称も「劉家北斗神拳」だ。

 

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これが初出、読み切り版「北斗の拳

さて、後漢は帝国なので当然中央集権制なのだが、
建国の事情から、豪族たちも兵を持っていて半封建的でもあるので、
その中から、三国志の英雄豪傑たちが出てくるのだが、
それでも光武帝の初恋相手の皇后は賢夫人で、子供をよく教育し、
光武帝と二代三代あたりまでは、皇帝本人の資質で上手く運営された。

二代が明帝と諡されることを見ても、父同様の名君であり、
彼は前漢ラッキーマン宣帝の置いた西域都護に力を入れたので、
その中から出てきたのが班超である。
ちなみに都護とは、西域の都(すべて)を護るものだ。

班超は、対匈奴後漢の西域領土化に活躍しただけでなく、
部下の甘英を大秦国(ローマ帝国)に派遣したことでも知られる。
甘英は、地中海の東岸までしか行けなかったようだが、
その後、大秦国王安敦の使者が海路後漢に来る。(偽物らしい)

当然後漢は対等貿易ではなく、中華思想から朝貢として扱った。
日本の使者に「漢委奴国王」印を与えたのもこの頃だ。
「漢の」が付いている以上、日本も中国の一部だと言っている。
つまり後漢は、東は日本から西はローマ帝国までを属国と見なした。
おそるべきは中華思想、言ったもん勝ちで世界を征服している。

後漢は四代から幼帝が続き、外戚と宦官の権力争いになった
宦官としては(ピー)を切った分、利益はとことん追求したい。
そこを「清流派」を名乗る人たちから批判されたので、
取り締まるために党錮の禁を起こした。

[宦官]
なぜそんなものになるのか、と生徒に聞かれることがある。
刑罰(宮刑という、司馬遷がこれ)や奴隷が宦官になることもあるが、
宦官は皇帝の妻子に接近しやすいので、一族全体の出世に繋がるのだ。
ただし、命がけだ。
競走馬にすることがあるように、手術自体は家畜から始まったが、
今のように衛生的ではないので、手術後に死ぬ人も出る。
まったく、なぜそんなものになるのか、こっちが聞きたいわ。

【対宦官戦】
後漢だけでなく、歴代王朝の腐敗は宦官の台頭によるものが多い。
その結果、中国では何度か、宦官を一掃する戦いがあった。
攻められた側の、非戦闘員の男たちは、
宦官ではありません、と言いたいために、下半身を丸出しにする。
私が襲撃者なら、そっちの方が殺意がわくけどね。

国内の豪族は、後漢の皇室が乱れたら好き放題になった。
ほとんど封建的になっていき、虐げられた民衆は宗教に頼る。
太平道五斗米道(入信するときに米を五斗寄付する)などがあって、
太平道の首領張角が調子こいて起こしたのが、黄巾の乱(184~)だ。
黄巾の乱の平定から、三国志の幕開けとなる。

『柔よく剛を制す』
柔道の極意ではない、これはもともと兵法書三略」の言葉で、
光武帝が好んで使ったことで広まった。

『矍鑠』(かくしゃく)
老いてますます盛んなこと。
光武帝が老将を評して言った言葉による。

『虎穴に入らずんば虎児を得ず』
班超が、北匈奴の一団に36人で切り込む時に言った言葉。
奇襲攻撃が上手くいくと、人数はあんまり関係ないことがわかる。

後漢の文化◎
特筆すべきは、蔡倫による紙の発明だ。
(正確には改良。エジソンの電球と同じ)
書いたように、宦官は性格が歪んで有害な存在であることが多いが、
後漢蔡倫と明の鄭和は、例外と言ってよいと思う。

またこのころ、中国にも仏教が伝わっている
インドでは龍樹ナーガールジュナ)が大乗仏教を始めているが、
その伝来はもう少し後だ。

あと、班超の家系は元々歴史一家で、
兄の班固紀伝体の「漢書」を著している。
弟の班超はそれが不満で武将になった、というありがちな話。

漢書以来、
王朝の歴史を記録することは、次の安定王朝の仕事になった。
とはいえ、次の王朝が安定するとは限らないので、
唐書(旧唐書)は後に、新唐書が作られている。