中国史13.隋(581~618、全国統一589)
首都は大興。
漢の首都長安のすぐ横に新首都をつくった。
たいがい初代皇帝には、天下を取るまでの英雄譚があるのだが、
楊堅は北周の将軍として活動しているうちに、禅譲を受けて皇帝になった。
今まで私は、建国者の特徴を一言で書いてきたが、楊堅は書けない。
彼は後の軍閥のような武川鎮と呼ばれる集団のトップだった。
同じ武川鎮から、唐の李淵も出ている。
もちろん北周の皇帝一族は皆殺しである。もうね、やれやれだ。
あれ? 北周って鮮卑系じゃあ、と思った人はその通り。
隋も唐も、その後の五代も宋も、北方民族の血をひいている。
匈奴も鮮卑もその後の女真も、漢族と一体化していっただけの話。
中国人はウイグルやチベットを迫害するが、自分らも似たようなもので、
純血の漢民族を探すのは、無整形のアイドルを探すようなものだ。
楊堅は、創業者なのに文帝と諡されるように、制度に見るべきものがある。
律令を制定し州県制を整え、府兵制や均田制など、
次の唐がそのまま引き継いだ制度がいくつもある。
画期的かつその後清まで続いたのが科挙(最初は選挙と呼ばれた)だ。
隋は、長期安定王朝になる要素がいくつもあった。
隋という名前も、最初は隨だった。(春秋地図参照、楚の右上)
しんにょうには「走り去る」という意味があって縁起が悪いと、
隋という字を新たに作って王朝名にしたわけだ。
だが、後継者を選び間違えたことで、本当に走り去ってしまった。
さて、二代目楊広(煬帝)に登場していただこう。
数ある諡号の中でも「煬」は最低最悪のものだ。
彼は、将軍として陳を滅ぼし全国統一(589)したのだが、
父親の楊堅と同じ頃に陳の最後の皇帝だった人が死んだので、
その廃帝に、最悪の暗君かつ亡国の君主ということで、煬帝と諡した。
まさか自分もそう呼ばれることになるとは、楊広自身思わなかったろう。
「馬鹿と言う人が馬鹿」を世界史レベルで実践した人だ。
父親に文帝と諡したことで、彼自身は武帝と呼ばれたかったかもしれない。
だから高句麗遠征にこだわったが、全て失敗に終わる。
また、大運河を造営して民衆を疲弊させたということなのだが、
宋の首都開封など、その後の都市は大運河の要衝にできる。
大運河は、煬帝が後の世に遺した功績、と考えるべきだろう。
【旅行記6】
大運河はその後の王朝でさらに延長され、北京まで繋がった。
船で北京から長江河口まで行ける、本当にやるのは皇帝くらいだが。
私が行ったのはその末端の上海、バンドと呼ばれる運河なのだが、
恋人たちがたくさんいて、運河に蹴り落としてやりたくなります。
(旅行記6終わり)
さらに煬帝は、日の没する処の天子、などという、
超失礼な聖徳太子の手紙に、裴世清を答礼使として派遣する。
日本にとっては、恩人とも言える皇帝である。
したがって煬帝と諡するのは酷すぎる、とは思う。
我々日本人は、もっとずっと愚かだ。
私は純系日本人なので、日本人の悪いところもわかっている。
皆が良いと言えば自分も良いと思い、悪いと言えば自分も悪いと思う、
いわゆる、付和雷同性というヤツだな。
中国が「煬帝は最低最悪だ」というものだから、「ようてい」と読まず、
「帝」を、わざわざ呉音の「dai」で読む。
馬鹿馬鹿しい限り、小日本人の悪いところだ。
[音読み三種]
基本だが、漢字の音読みは中国から伝わったもので、訓読みは日本語訳だ。
例えばもし apple が漢字なら、音読み「アップル」で訓読み「りんご」。
さらにその音読みにも三種類ある。
○漢音:朝鮮半島経由あるいは直接(遣唐使等で)伝わった読み。
例、行(kou):銀行、行動
○呉音:南方経由で伝わった読み。「y」の音が特徴。仏教関連に多い。
例、行(gyou):行列、苦行
○唐宋音:遅れて伝わった読み。珍しい。
例、行(an):行脚、行灯