14A.唐(618~907)
唐は長くなるので、前後編に分けようと思います。ABで。
首都長安は、隋の大興の名前を変えた(漢の頃に戻した)だけ。
漢と並び、一文字だけで中国全体のことを表すようになった王朝、唐。
初代皇帝は北周将軍の家系の李淵(高祖)、老子の末裔を名乗っている。
だが、建国者は彼ではない。
実質の建国者は二代目太宗李世民。
一言で表すなら、スーパーマンとしか言いようがない。
隋末の混乱の中、父親李淵を説得して挙兵し、
兄や弟と共に、各地の同類を討伐して唐を全国政権にする。
さらには皇太子となったその兄を倒して即位し、
できたての唐を侮って攻めてきた異民族を打倒する。
(異民族から天可汗の称号を贈られた。中華皇帝かつ異民族の大王)
そして内政は、貞観の治と呼ばれる善政を敷いた。
漫画やゲームにも出てこないミスターパーフェクトだ。
欠点の無い人はいないが、皇帝としての李世民の欠点は見つからない。
唐の太宗と言えば、名君 of the 名君s、理想の皇帝で、
後の世の全ての皇帝が、太宗のように、と目指した人になった。
貞観という元号は日本にもあり、太宗の諡号と同じ文武天皇もいる。
[廟号について]
「太宗」というのは諡号ではなく廟号。
廟号というのは死んだ後に先祖として祀るための名前で、
諡号と違って評価されたものでもなく、生きているうちに付けられる。
日本に諡号は伝わったが、天皇に廟号はない。
なぜ唐からはこちらを主に使うのかというと、
諡号が、後から追加されまくって複雑になったからだ。
太宗の諡号は「文武大聖大広孝皇帝」という、覚えにくいったらない。
今風に言うと、ストリートファイターⅡ’ turbo ZERO みたいなものだ。
[李世民の諱について]
「経済」という言葉を知っていると思う。
カネの流れのこと? そうだけど、そうじゃない。
経世済民(けいせいざいみん)、世を経(すく)い民を済(すく)うことだ。
経済をちゃんとすれば世界が平和だから、こういう言葉になった。
李世民の「世民」も同様の意味でつけられた。李淵の先見の明が凄い。
さて、スーパーマンの時代にはスーパースターが現れる。
三蔵法師玄奘である。
玄奘は太宗の禁令を破ってインドに行き、ナーランダで修行、
仏典を持ち帰って翻訳したのだが、そのことを咎めず、
西域の事情をレポート提出せよと命じる、それが太宗なのだ。
そのレポートが、有名な「大唐西域記」である。
この二人のお陰で、後の歴史家がどれだけ助かっているか。
では太宗は仏教徒なのかというと、
南北朝時代から少しずつ伝わってきた拝火教(ゾロアスター教)や、
マニ教、景教(ネストリウス派キリスト教)にも理解を示し、
儒教は孔穎達に命じて「五経正義」を編集させ、解釈の統一をめざした。
要するに、器が大きいってことだ。
ここで、唐の制度をまとめておこう。
政治は、三省六部。
中書省:詔勅(皇帝の発表文)の立案起草。そのまま法律になる。
門下省:詔勅の審議。今の国会。
尚書省:六部の監督。今の内閣。
六部は、
吏部(人事)、戸部(財政)、礼部(教育、祭礼)、
兵部(軍事)、刑部(司法)、工部(土木)
あと、御史台(官吏の監察期間)がある。
法制は、律令格式。
律(刑法)、令(民法)、格(補充改正部分)、式(施行細目)
人事は、科挙。
それにプラス、蔭位の制といって祖先や親の官位によるものもある。
『秀才』
唐代の科挙の一種。
明、清で、地方試験合格者を秀才と呼ぶようになり、今に残る。
税制。
州県制:郡県制の郡が州になっただけ。州の数は350くらい。
均田制:男子に口分田を与える。他に永業田もあり、日本と少し違う。
租庸調制:租(粟)、庸(中央労役)、調(絹、布)、雑徭(地方労役)
兵制。
府兵制:今でいう徴兵制に近い。
都護府:西域だけでなく、東西南北その他にも置いた。
(まとめ終了)
さらに唐には、スーパーウーマンまで登場する。
三代目高宗は、父親である太宗の夫人の一人に恋をしていた。
太宗が死んだことで尼寺に入ったその人を、還俗させて妻にする。
それが武則天、則天武后である。
皇帝が純愛なんてしてはいけないのだ。
彼女は「失うものなどない、とことんやったれ」的な行動をする。
まず高宗の皇后を罠にかけ、自分が皇后になった上で殺す。
さらに皇帝の名を天皇と変え、自分は天后になる。
(日本の大王が天皇に変わったのは、これの影響という説もある)
そして高宗が死んだら、自分の子(中宗、睿宗)を皇帝にして操り、
最終的には自分自身が皇帝になって、国号も「周」に変えた。
中国史上唯一無二の女帝だ。
こんなことができたのは、武則天個人の資質によるもので、
武則天が死ぬと中宗が復位し、国号も唐に戻している。
中宗の皇后である韋后は、則天武后を見てきたので、
自分も同じことができると思い上がって、中宗を毒殺するが、
李隆基(後の玄宗)によって倒された。
これら唐が女によって乱されたことは「武韋の禍」と呼ばれる。
武則天は、漢の呂后、清の西太后と合わせて中国三大悪女の一人だが、
呂后や西太后もそうだけど、女性が政権を取ると、
女性特有の細やかさが反映されて、むしろ世の中は安定するのだ。
単純に韋后が愚かだっただけで、武と韋とは別ものであり、
貞観の治と則天武后時代と開元の治は、一体として考えた方がいい。
合わせて、唐の全盛期だ。
前述の武川鎮集団から力を奪ったのも武則天の功績だ。
煬帝も太宗もできなかった高句麗遠征を、新羅と同盟して成功させ、
百済の救援の日本軍を白村江の戦いで破ったのも、則天武后の軍隊だ。
新羅はその後GSOMIA、じゃなくて同盟を破棄して朝鮮半島を統一する。
[渤海]
高句麗の遺民が作った国。
唐に入朝し、唐からも地位を認められていたが、契丹に滅ぼされた。
ちょうどこのころ白頭山(朝鮮自体がここで興った、聖域)が、
日本の東北にも火山灰を降り積もらせるほどの破局噴火をしたので、
渤海滅亡との因果関係が指摘されている。
私はどっちでもいいので両方使うが、
則天武后という呼び名は、武則天の帝位を認めない人が使いたがる。
ただ、皇帝として我が国を初めて「日本」と呼んだのは、女帝武則天だ。
あと、武則天の時代には、太宗時代の玄奘に当たる義浄が出て、
海路インドに出向いて仏典を持ち帰り、翻訳している。
レポートを「南海寄帰内法伝」という。
李隆基はその後即位して玄宗になり、開元の治と呼ばれる善政を敷いた。
この時に活躍したのは、武則天時代に登用され鍛えられた官僚たちだ。
開元の治の政策のひとつに、節度使がある。
農民への負担の大きい府兵制から募兵制に移行しつつあったので、
その監督かつ徴税を行う役人だったのだが、
兵と徴税を任せるなら、これはもう疑似封建制だ。
玄宗自身、後半には政治に飽き、自分の息子の夫人を横取りする。
その女性が楊玉環、即ち楊貴妃だ。
Bに続く。