楚漢の抗争、追加1.「背水の陣」
韓信の「背水の陣」を、
川を挟んで対峙する会戦の基本を無視、敢えて渡って川を背にし、
自軍の逃げ場をなくすことによって必死の力を出させるという、
韓信の画期的新戦法、と誤解するといけないので、詳説する。
(私が書いたんだけどね)
「井陘の戦い」は趙軍20万対漢軍3万。
そんな程度で、7倍の敵を撃破できるわけがないだろう。
韓信はなけなしの3万の兵から2千を割き、
別働隊として敵城の後ろに遠回りさせる。
そして夜明け前、背水の陣を敷く。
韓信は戦の前の戦闘食を兵に食べさせながら、
勝ってから朝食をとろう、と言ったら、誰も信じずに笑ったらしい。
趙軍の城から韓信の軍は見えるので、
そのあまりの少なさと、陣法無視の策を趙軍も笑い、
城を出て堂々の布陣で漢軍に襲いかかった。
本来なら、城に留守番部隊を置くはずなのだが、
どう見ても楽勝できる戦いに、誰もやりたがらない。
垓下の戦いにも書いた「後の褒美が楽しみだ」という心理を突いたのだ。
背水の陣も合わせて、このへんの韓信の作戦は、
「調虎離山」(虎をはかって山から離す)といって、
敵を本拠地から誘い出す策だ。
したがって、戦闘においても、
どうせ勝つと思っている20万と、必死な3万の戦いになる。
じわじわと漢軍は追い詰められるが、殲滅には時間がかかる。
その間に漢軍の別働隊2千は、城の裏から突入し、
残っていた老兵や傷病兵をやっつけて城を占領して、
城壁に、漢軍の旗を立てた。
漢軍の必死の防戦に攻めあぐねていた趙軍は、
それでもそろそろなんとか、と思って後ろを見ると、
なんと城には漢の旗が林立し、占領されているではないか。
どういうことだ? 負けたのか? と混乱した趙軍は、
城門を開けて突撃した別働隊と、今度は挟み撃ちになる。
ここでまた、趙軍の心理を韓信は操る。
漢軍は遠征軍であり、後ろは川で逃げようがないから必死になったのだ。
趙軍は、地元だ。
もし戦いに負けたなら、新しい支配者に対して、
忠誠を誓うので今まで通りこの土地は私に、という交渉をせねばならない。
我先に、と自分の土地を目指して20万の軍勢は崩壊してしまった。
韓信は約束通り、朝食を皆と食べてから戦後処理をした。
これが、真の意味での背水の陣だ。
突然だがここで、アイザック・ニュートンの話を出す。
同時代に、ベルヌーイという科学者がいる。
プロ投手の速球が浮きあがる「ベルヌーイの定理」は、
この人の一族が見つけたものだ。
彼は「最速降下線問題」と呼ばれる超難問を、
「この問題を 1 年 半 以 内 に解けたら賞金を出す」として、
ヨーロッパの著名な数学者に郵送したのだが、
家に帰ってそれを見たニュートンは、
解答を書いた手紙を、次 の 日 の 朝 にポストに入れたという。
私の知る限り、韓信とニュートンの二人だけだ、
「朝飯前」という言葉を、本当にやってのけた人は。
私は本論で、韓信を天才と呼んだが、
比肩できるのは、ニュートンレベルということになる。