中国史、明追加1「袁崇煥」
明末には忠臣は出なかった、と書いたのは、書きすぎた。
袁崇煥(えんすうかん)がいる。
まず、橋頭堡について説明する。
これは、自陣あるいは城から大きく敵陣に踏み込んで築いた陣地のことだ。
当然ながら精鋭部隊が置かれることになるが、
これがあればその後が有利になるという、自衛隊などで教えられる近代戦術だ。
(自衛隊でその任務に就く精鋭はレンジャー部隊。ゴレンジャーとかの元ネタ)
その近代戦術に、400年前に気づいたのが、
日本の真田幸村と、明の袁崇煥。
大坂冬の陣で、家康が真田丸に手を焼いたのは歴史的事実だ。
同じころ、ヌルハチが山海関を攻めていた。
山海関を守る武将は弱気で、出城にいた袁崇煥に撤退命令を出したのだが、
袁崇煥はこれを拒否、わずか1万の兵でヌルハチを撃退してしまった。
兵が強かったわけではない。
袁崇煥は科挙合格者、もともと文官の痩せたイケメンだ。
ただ彼は周囲の反対を押し切って、異国から大砲を手に入れていた。
砲弾をかいくぐって城に取りついたヌルハチの兵に、
袁崇煥は、自ら石を落として兵とともに戦ったという。
ヌルハチに続いて、ホンタイジも撃退した袁崇煥は、
明軍において、諸葛孔明の再来と言われるようになる。
だが、袁崇煥が偉大だったのは、孔明や韓信のように戦術ではなく、
橋頭堡や大砲(紅夷砲と呼ばれた)など、戦略面だ。
問題は、この頃の明の皇帝が崇禎帝だったことだ。
彼は臣下の言葉をよく聞き、倹約を心掛け、明を立て直そうとした皇帝で、
たったひとつの欠点がなければ、名君になってもおかしくなかった。
その欠点とは、猜疑心だ。
袁崇煥が謀反を計画しています、という愚かな臣下の言葉を、
崇禎帝はあっさりと信じてしまい、袁崇煥を呼び戻して凌遅刑にした。
臣下を信じるのも、時と場合によるって話だ。
凌遅刑とは何か?
ジョジョの読者なら知っている、暗殺チームのソルベの殺され方だよ。
彼は足からだったが、体の先端から輪切りにされる最も残酷な死刑だ。
豊臣秀頼も、真田や後藤又兵衛などの能臣を信じられずに滅びたが、
一番の忠臣を輪切りにしたのでは、明は滅びるしかないだろう。
李自成の軍が紫禁城に迫った時、
崇禎帝は、妻や娘を斬って自分も自殺したのだが、
娘に「なぜおまえは皇帝の娘に生まれたのだ」と言って泣いたという。
(手元がくるって、その娘は生き延びたんですけどね)
その気持ちの一部だけでも、袁崇煥に向けることができたら、
明はもう少し、滅びずにいられたかもしれないのに。
つまり明は忠臣がいなかったのではなく、殺してしまったのだ。
崇禎帝が、自殺しようと周りを見回したら、
残って自分に付き従っているのは、あと宦官が一人だけだったという。
人間なんて欠点ばかりなので、
たいがいひとつ良いところがあれば、評価してもいいと思うのだが、
崇禎帝は、たったひとつの欠点がすべてを台無しにした珍しい例だ。
さて、ここからは追加というよりおまけだが。
幕末の日本にも、袁崇煥と同じような発想をした人物がいた。
長岡藩の、河井継之助だ。
戊辰戦争の官軍が、越後長岡藩に迫った時、
河井継之助は長岡藩の家老として、官軍との交渉に当たったが、
たまたま官軍の指揮官の頭が固く、開戦ということになってしまった。
今までが連戦連勝だったので、官軍は強気だったのだが、
戦いが始まって仰天する。
河井継之助は、幕府瓦解時に江戸藩邸にあった宝物を処分し、
そのカネで当時最新式のガトリングガンを買っていたのだ。
官軍の薩摩武士の示現流も、回転式自動小銃には敵わない。
雨のように飛来する弾丸に、バタバタと兵が斃れていく。
弾切れまで粘って突撃しようとすると、もうひとつ、
河井はさらに余ったカネで、アームストロング砲を手に入れていた。
しかも、弾は榴弾、つまり散弾銃と同じように破裂するのだ。
生きていれば明治政府の重鎮になれたような人物が、何人も死んだ。
おまけで書いているのだが、これ、ほとんどファンタジーだぞ。
官軍が刀槍で突撃をかまそうとすると、
マシンガンと大砲ショットガンで粉砕されるという、
いったいどこの時代からタイムスリップして来たんですか、って話だ。
とはいえ、河井継之助の周りだけ頑張ってもどうしようもなく、
回り込まれて城が落とされ、河井は敗死する。
明の袁崇煥より河井継之助の話が多くなってしまったが、
最新式のものは伝統にこだわらずに採用した方が良いという教訓が、
袁崇煥と河井継之助だな。