中国史、南宋追加1「正氣の歌」
日本の歴史教科書にはたいして載っていないのですけど、
中国の国民的英雄といえば岳飛で、尊敬の対象としては諸葛孔明と文天祥です。
今回は、文天祥について。
滅びる側の家臣で有名な人はどこの国にもいて、
例えば日本なら、石田三成や新選組あたりになると思う。
それでも、もし関ヶ原が石田勝利に終わったなら、
豊臣政権下で、石田三成は鎌倉幕府の執権のような立場になったと思うし、
新選組の近藤勇なんて、戊辰戦争に勝って甲州の大名になるつもりだった。
(板垣退助率いる新政府軍に瞬殺されたけどね)
勝ったとしても、自分が取って代わろうとしなかったであろう二人が、
中国では、諸葛孔明と文天祥だ。
諸葛孔明は、しなかったであろうどころか、しなかった。
なぜなら蜀の昭烈帝劉備玄徳は、遺言として、
「子の劉禅が皇帝に相応しければ補佐をし、相応しくなければ取って代われ」
と孔明自身に言ったので。
(そう言われると逆にできない心理を突いたのかもしれないが)
劉禅はまれにみるほどの愚帝だったが、孔明は死ぬまで忠節を尽くした。
文天祥は、南宋の遺臣だ。
ゲリラ戦を展開していたが、元に捕まったらすぐに宋は滅びた。
フビライは文天祥の人格と能力を惜しみ、説得を続けたのだが、
文は、ただ死を賜らんことを、と言うのみだった。
この時に詠んだのが、有名な「正気の歌」だ。
天地有正氣 雜然賦流形
下則爲河嶽 上則爲日星
で始まる長い歌で、冒頭のみ意味を書くと・・
天地に正氣有り 雑然として流形を賦く
下りては則ち河嶽と為り 上りては則ち日星と為る
この世界には正氣があり、いろいろな形を取る
地に下りては大河や山嶺となり、天に上っては太陽や星になる
つまり、
文天祥の言う「正氣」を、原子やクォークと考えれば、
考え方として間違っているわけではない。
ただ文は、
それはあくまで正しいものなので、私はそれに従う、
と言っているわけだ。
機会があったら通して見てみるといい、けっこうカッコいい。
フビライは、反乱しないことを条件に生かそうとも考えたが、
文天祥が生きていれば、それを利用する勢力が出るだろう、と、
結局死刑にした。
文天祥は、南(南宋の方向)に拝礼してからその首に刀を受けた。
フビライは「真の男子なり」と嘆いたという。
中国においても戦前までの日本においても、
中国史トップ5に入る有名人のはずなのだが、
「主君に忠誠を尽くす」という価値観が、今の日本には合わない。
したがって、戦後の平和教育というヤツを受けてきた君たちは、
(実は私もなのだが)彼を知らなかったとしても、
例えば幕末の藤田東湖や吉田松陰あたりは、
文天祥への返歌の形で、いくつもの正氣の歌が書かれている。