数学帝國への逆襲 (西春自習質問教室のブログ)

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中国史16.宋(北宋)

国史16.宋(北宋、960~1127)

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遼の方が大きいが、人口が違う

首都は開封
大運河の要衝に、首都も移った。

建国者趙匡胤太祖)を一言で言うなら「酔っぱらい」である。
しかしこの酔っぱらい、私が中国史上で最も尊敬する人なのだ。
全国統一は二代目太宗趙匡義の頃

皇帝になりたがらない大の酒好き趙匡胤が、酔って寝ている時に、
部下が黄袍(こうほう、皇帝しか着ることはできない)を着せ、
これでも拒否するならあなたを殺して私たちも死ぬ、と言った。
皇帝専用の服を着た以上、皇帝になるか死ぬか二つに一つだ。
そういう事情で即位するのだが、まあこれは半分嘘である。

この話が伝わった段階で、中国の人たちも馬鹿ではないので、
「その黄袍はどこで売ってたんだ」というツッコミが入っている。
尊敬できるのは、そこではない。

趙匡胤は皇帝になると、
跡継ぎの皇帝しか見られない命令を、石に刻んで2つ遺した。
ひとつめは「後周の皇帝一族を殺さず保護せよ」というもので、
王朝が交代すると前の皇族は皆殺し、という悪習が回避されたという、
これだけとっても画期的で尊敬に値することだ。
後周の皇族は宋の貴族として、南宋滅亡まで優遇されます)

あり得ないほど素晴らしいのはふたつめの、
「言論を理由に臣下を殺すな」というもので、
皇帝に反対意見を述べても殺されない、世界初の「言論の自由」だ。
(対象は士大夫、一般庶民は関係ない、というかそんな機会がない)

[漢文の考え方](ここは読んどけ。赤丸超スーパー最重要だぞこれ)
したがって、大学受験に出てくる漢文も、
唐までは、命を賭けて意見を述べる描写がよく見られるが、
宋からは、殺される代わりに田舎に左遷されるので、
左遷された側の、都に帰りたい、という文が多くなっていく。
(古文の「東下り」を思い起こせば、あれに近い)
そういう概念で漢文を読めば、文脈を間違えない。

宋は、後に江戸幕府が真似をする文治主義を政策として、
節度使に欠員ができるたびに軍事に無縁の文官を当てるが、
太祖趙匡胤は、節度使に名乗り出た武将に、
「おまえに反乱する気がなくても部下に黄袍を着せられたらどうする」
と言ったそうだ。
そこまで考えての行動なら、たいしたものだと思う。

さらに趙匡胤科挙も充実させ、皇帝臨席の最終試験殿試を始めた。
州試、省試、殿試に分ける科挙の完成は太宗の次の真宗の時代だ。

宋代では、小作農を佃戸、地主層を形勢戸と呼んだが、
形勢戸のうち、科挙合格者を出した家系は官戸と呼ばれ、
税の減免など特典が与えられたので、受験競争はヒートアップした。
それまでの貴族は力をなくし、新たな支配者層ができていった。
これを士大夫と呼ぶ。

この文治主義で宋は大繁栄し、歴代最高と言ってもよい金持ち国となる。
宋は、遼、西夏などの敵国に囲まれていて軍事費はかかるのだが、
戦争をしないのとするのとでは、支出が全然違う。

とはいえ、弱かったのもまた事実で、
まず、契丹)とは、淵の盟(せんえんは地名、1004)を結ぶ。
歳幣を贈る見返りに、宋が兄、遼が弟。つまり、実より名を取った。
西方の西夏チベット系タングート族)とも、
慶暦の和約(けいれきは元号、1044)を結び、
宋が君、西夏が臣になる見返りに歳幣を贈る
戦争よりはマシ、「平和をカネで買う」というヤツだ。

唐の太宗は理想の君主として、貞観の治と呼ばれる善政を行った。
盗賊がいなくなり、寝る時に鍵をかけなかったと言われたほどだ。
宋の繁栄はそういう意味ではなく、カネがあるから夜も商売で明るい。
首都開封不夜城となり、夜は普通に出歩けるようになった。
酒楼(レストラン)、茶館(喫茶店)もできて繁盛する。

」という表現もこの頃から使われ始め、
商人が、手工業者がという組合を作り、
手形の交子会子の中で、交子が世界初の紙幣になっていった。
(銀行の「行」は、ここからきている)

さて、ここまで読んできて、君たちは思わなかったか?
どこかで聞いて知っているような内容だな、と。

君たちのよく知る国に、同様の国があると思う。
近隣諸国に、経済援助という名の歳幣を払っている国が。
世界有数の金持ち国で治安も良く、都市が不夜城となった国が。
北の国に奪われたままの失地があり、平和をカネで買う国が。

宋は、現代日本と似たところが多い。
ここで前に書いたことを繰り返す、歴史を学ぶ本当の意義だ。
学習せよ日本人、宋と同じでは中国人を笑えないんだよ。

贅沢をした宋は、その後バブルが弾けて赤字転落した。
神宗王安石を起用しアベノミクス、じゃなくて新法の改革を始めた。

新法の内容を述べる。
青苗法
農民に安く種モミを貸し出すことで、金貸したちから大反対される。
募役法
農民の雑役の代わりにお金を払う。賄賂が欲しい役人から反対される。
均輸法
漢の均輸法みたいなもの。すでに商人でもできるので反対される。
市易法
中小零細商人に金を貸す。最初は混乱して反対されたが定着。
保甲法
郷村制を再編。民兵をつくる。職業軍人から反対される。
保馬法
軍馬を民間委託して育成する。反対がなかったのはこれくらい。

日本にも何でも反対する党があるように、皆が反対するのだが、
反対する理由が「昔はこうだったから」だから始末が悪い。
この時代の中国では「昔のことは良いこと」なのだ。

代表的な反対政治家は司馬光
彼は反対の根拠を示すために歴史書を書く、編年体の「資治通鑑」だ。
彼らを旧法党といい、新法党との大政治闘争に突入する。
旧法党が勝つと新法党は全員左遷、5日で元に戻せという命令が出る。
当然無理だが、その期限5日を達成したのが水滸伝の悪役である蔡京だ。

ただ、殺し合いではない、王安石司馬光漢詩の交換をする仲だ。
何を言っても殺されないので、宋政府は空理空論の論争の場と化した。
科挙に合格する超秀才も、頭の使いどころを間違ってしまったわけだ。

断言する、宋が滅亡したのは「言論の自由」が原因だ。
始めた趙匡胤は偉大だが、自由であることはユートピアではないのだ。
それを今から解説しよう。

この頃、現在はロシア領沿海州のあたりにいたツングース女真族が、
完顔阿骨打太祖)によって統一され、力を付けてきていた。
(この少し前、「刀伊の入寇」で日本も被害に遭った)
猛安・謀克と呼ばれる国民皆兵制は、いつもの騎馬民族と同様だ。
(猛安・謀克は、金の言葉に漢字を当てはめただけ)

宋は、遼打倒のチャンスだと、国名を金とした女真族と同盟する。
遼にバレないように海を使ったので「海上の盟」という。

宋金同盟軍で遼を攻めるはずだったが、宋はその頃反乱が多く、
(後に水滸伝のモデルになる宋江の反乱を含みます)
金はほとんど単独で遼を滅ぼしてしまった。
(耶律大石に負けたのも宋)

海上の盟では、宋金連合軍で遼を滅ぼした後は、
燕雲十六州は宋のもので代わりに金に歳幣を贈る、という内容だった。
金はほぼ単独で遼を倒したが、約束を守って燕雲十六州を宋に譲った。
だが宋は、言論の自由で話し合った結果、約束の歳幣を払わなかった。
野蛮人との約束など守ることはないと主張する人が多かったからだ。

金は完顔阿骨打が死んだところだったが、違約を理由に宋に攻め入る。
首都開封を囲まれた宋は、謝って屈辱的な和議を結び、金は退却した。
言論の自由で、今度は遼の残党と連携しようとしたので、金がキレる。

言論の自由で好きなことを言ってよい場合、慎重論は売国と呼ばれ、
どうしても勇ましいことを言う側が勝ってしまうのだ。

金は開封を制圧し、八代皇帝の欽宗と先代の徽宗を金の首都に連行した。
彼らは自炊し、彼らの妻女、つまり皇后や公主は売春婦にされた。
これを靖康の変(せいこうは元号、1126)という。

徽宗
書や院体画の名手。皇帝をやるべき人じゃないです。

国と国との約束を破るとどうなるか、千年前の宋で結論は出ている。
某隣国のことだけを言っているのではない、
テレビやネットで勇ましいことを言っている連中も、同類だってことさ。
冷静に考えれば、思慮の足らない人間は勇ましいことを言う他にない。
国家間の交渉ごとは、慎重論こそ当たり前なのだ。
勇ましいことをやって良いのは、その器がある歴史上の英雄だけだ。