申し訳ない、肝心なことを書き忘れていた。
教育を生業にする以上、これは書かなきゃいけないと思う。
「なぜ勉強するのか」
「自分のため」と学校の先生は言うだろう。
「将来のため」と君たちのお父さんお母さんは言うかもしれない。
確かにそうだ、間違ってはいない。
じゃあ私は?
私は何のためにこの仕事をしているんだ?
「生活費を得るため」、確かにこれが理由の大半ではあるが、
それだけじゃないぞ。
「生徒の役に立ちたいから」「生徒の将来を考えて」
そういう気持ちもあるのだが、口に出すのは恥ずかしい。
「若い君たちに頭脳で負けたくない」・・これはけっこうあるな。
説明するために、ここは少し回り道をご勘弁願いたい。
私のところで働いている、あるいは働いていた先生で、
カンボジアまで自費でボランティアに出向いた人や、
熊本地震の際にボランティアに行った人がいる。
素晴らしいことだと思うかい? もちろんそうだな。
だが、それだけで終わりなら間違いだ。
彼らがボランティアに行く間、
彼らの残していった仕事を片付け、代わりをする人がいる。
彼らのお父さんお母さんも、いろいろな意味で協力しただろう。
そういう人だって、ボランティアに参加したとは言えないか?
また、私のところで働いていた先生で、
某ノーベル賞科学者の教え子だった人もいる。
その科学者の元で日々研究をしていたわけだが、
ノーベル賞受賞のための旅の世話までして、体調を崩した。
したがって私は、ノーベル賞や国民栄誉賞に、
反対だとまでは言わないが、複雑な思いを持っている。
何が言いたいのか。
ボランティアも科学の業績も、たった一人が偉いのではなく、
その周り全体が「努力し良い方向に向いていた」結果だと思うのだ。
それが「勉強する理由」である。
世の中が、怠惰で怠慢で誤魔化しが多くなれば、人類は負の方向に向かう。
逆に、皆が努力し勤勉であり正の方向に向いていれば、世界は平和だ。
そう思わないか?
世界平和というのは、怪人を殴って蹴って爆発させれば得られるのか?
あるいは、国連で顔を歪めて叫べば手に入るのか?
違う。
地球に住む人間の皆が皆、勤勉に努力し考えを尽くせば、
平和な世界が、環境良化が、人類自体の発展が、きっと得られる。
大袈裟だ、誇大だ、と思う人のために、話をもう少し小さくしよう。
君たちが努力し、自分の希望の道に進むなら、
それはこの世の中に、ひとつの人材が加わったということだ。
君たちの周りが、ほんの少しだが良くなった、と言うこともできる。
逆に君たちが勉強をしなくなり、諦めて、どうでもいいや的に暮らすなら、
それはひとつの才能が潰れたということであり、
君たちの周りが、ギスギスして暗くなっていくことに通じる。
大きく考えても小さく考えても、私には当たり前の話に見えるが、
違っているかな?
私は、そのためにこの教室を運営し、君たちに数理を教えている。
そして言う、
「世界の平和のために勉強しなさい」と。