中国史8.新(8~23)
王莽を一言で表すなら「超出世頭」である。
彼は、出世しすぎて皇帝になった。
出世するために、疑われた長男を自殺に追い込んでいる。
(徳川家康も同じことをしたけど)
宣帝が古い格式にこだわらず儒教を軽視して現実派だったのに、
その子の純愛派元帝は儒家を重用し、儒者かつ外戚だったのが王莽。
[外戚]
皇帝の母方の親族。
儒教文化では皇帝も目上には遠慮するので、権力を握りやすい。
後漢以降においても、宦官と外戚は政治上の障害となった。
日本においても、藤原氏や平氏はこの立場を利用した。
漢は彼に「安漢公」(漢を安んずる公)という称号を贈ったが、
王莽はその後、皇帝から位を譲られて自分が皇帝になる。
初めて確認される史実としての「禅譲」である。
彼は軍人ではなく、政治的に有能なわけでもなく、出世しただけだ。
周を理想として、現実に合わない政治をしたので、
すぐに赤眉の乱(18~)が起きて、新は崩壊する。
前に書いたように、中国で「乱」といえば全国規模だ。
味方か敵か見分けがつかないので、乱の側は眉を赤く塗った。
(黄巾の乱や紅巾の乱も、同様の理由で頭に布を巻いた)
全体では赤眉緑林の乱といい、(緑林は山の名)
緑林軍は王莽を殺すが、すぐに赤眉軍にやられ、
緑林軍と赤眉軍の兵を吸収した光武帝に、最終的には統一される。
光武帝の国は、後漢と呼ばれて前漢と区別されるが、
「漢を復興した」という意味で「光武の中興」と言われる。
(光武帝本人に言わせると中興とは宣帝のことだそうだ)
そして、光武帝が後漢をつくって制定した元号が「建武」である。
おわかりだろうか?
後醍醐天皇が誰の真似をしたかったか、そして誰の真似をしてしまったか。
これが、歴史を学ぶ真の意味だと思う。
後醍醐天皇は歴史を勉強したが、学習してはいなかったのだ。
『九州』
漢の郡県制の郡は、後半には州に代わる。
王莽は、周代には九つしかなかったからと、無理やり州を九つにした。
よって漢文では「九州」と書くと中国全体のことを指す。
その名はなぜか、東夷の島国で受け継がれている。