中国史7.漢(前漢、前202~8)
首都は長安。
劉邦(高祖)は、秦がすぐに潰れた教訓から、直轄地を郡県制にし、
遠隔地を国(江戸幕府の藩のようなもの)として、
功臣に封建統治させる「郡国制」をつくる。
直轄地が上手くいくようになると、理由を付けて国を潰して郡に編入し、
最終的には郡県制を目指したので、楚王になった韓信は結局殺される。
そのうち自分の番になる、と考えた呉王が、楚や趙と反乱を起こした。
これが呉楚七国の乱、と呼ばれる内乱だ。(六代景帝の頃、前154)
乱の中心人物が貴族で、上品に正々堂々と戦いながら西に向かううちに、
朝廷側の迎撃準備が整ってしまうという、世界初の平和ボケが敗因だが、
不満分子が一掃され、郡県制がほぼ成立して、七代武帝の登場となる。
ここで、匈奴の説明をする必要がある。
中華帝国は歴史始まって以来ずっと北方騎馬民族に脅かされるが、
匈奴はその最初の例で、民族系統などは不明だ。
始皇帝も対策のために長城を繋げて修復した。(秦の直道も同様)
最盛期の王を冒頓単于と言う。(単于は匈奴の王という意味)
強烈な逸話があるので紹介する。
冒頓は父の頭曼単于から疎まれていて、王になれるか微妙だった。
ある日、冒頓は部下に命令を出す、
「私が射たものを、すぐにおまえたち全員が射なければならない」と。
変な命令だったが、次の狩りでそうしなかった者は命令違反で殺される。
何度か繰り返して、冒頓は自分の愛馬を射た。
びっくりして射なかった部下は、命令違反で処刑された。
次に冒頓は妻を射た。
酷すぎると射なかった者を斬り殺した冒頓は、通りかかった父を射る。
頭曼単于は、ハリネズミのようになって死んだ。
史上、最も単純なクーデターの成立である。
こんなとんでもない騎馬民族の王が、漢の前に立ちふさがることになる。
皇帝になって勢いに乗る劉邦も、攻め込んだはいいが包囲されて逃げ帰り、
冒頓は劉邦の死後、その后に「私も妻が死んだから仲良くしよう」と、
挑発の手紙すら送っている。(妻を殺したのはおまえやん)
劉邦以来の宿敵匈奴に、武帝は攻勢をかける。
冒頓単于が死んで、30年ほど経っていた。
その時の将軍は、衛青と霍去病(かくきょへい)。
衛青は奴隷出身で霍去病は貴族の坊ちゃんだが、叔父甥の関係で仲は良い。
【衛青の結婚事情】
衛青は最初、武帝の姉の奴隷だった。
彼が出世して大将軍になった時、武帝の姉の再婚相手を臣下が探したのだが、
何度検討しても相応しいのは衛青しかいない。
武帝の姉は「え~? あいつなの~?」的な感覚だったようだ。
結婚生活は、どんなんだっただろうね?
【旅行記4】
武帝陵の近くにある武帝博物館は、霍去病陵に造られている。
立派な武帝陵と霍去病陵の間に小さな山と祠があったので行ってみたら、
果たして衛青陵だった。
他国の教科書にまで記載のある大将軍の墓を畑の中にうち捨てておく、
これが中国人クオリティ。
(旅行記4終わり)
匈奴を挟み撃ちにするために、張騫を大月氏に派遣した武帝だが、
その計画は失敗したにせよ、他への遠征は大成功を収め、
大宛(フェルガナ)遠征では、汗血馬千頭を得た。
西は敦煌はじめ4郡、朝鮮半島は楽浪郡はじめ4郡を置き、
南は南越国を滅ぼして9郡を置いた。
(朝鮮韓国は認めていません、楽浪郡は遼東半島にあったと言ってます)
匈奴はまだ強勢とはいえ、漢の領土は最大になるが、
度重なる軍費の捻出のため、武帝は鉄と塩を専売制にし、
均輸平準法をつくって制度も整えたが、民衆は疲弊したようだ。
均輸法(空間):豊作な地方で安く買い、不作な地方で高く売る。
平準法(時間):豊作な年に安く買い、不作な年まで保存する。
今では当たり前だが、この頃は国家でないとできないことだった。
有能な人材登用のため、郷挙里選も始めている。
これは人脈と金脈の要素が大きかったので、後の豪族形成に繋がった。
ちなみに、三国志の登場人物で、
曹操、孫堅、司馬懿あたりは、郷挙里選で世に出た人たちだ。
ここで、生徒諸君に教えることがある。
全盛期、というと聞こえが良いが、それは衰退期の始まりということだ。
衰退したくなければ、今を上昇期か安定期にするしかない。
武帝のひ孫に名君宣帝が出たにもかかわらず、漢は坂道を転がり落ちる。
[ラッキーマン宣帝について](後で必要なので覚えておいてください)
宣帝の祖父は武帝の皇太子だったが、謀反の罪で処刑された。
この時に、一緒に処刑されなかっただけでスーパーラッキー。
民間で育てられたが、皇帝の跡継ぎが他にいなくなって即位する。
つまり、昨日まで奴隷、明日から皇帝のウルトララッキー。
匈奴が分裂弱体化して、武帝すらできなかった単于の降伏を実現する。
ハイパースペシャルラッキーの宣帝だが、
庶民出身なので、先例や家柄にこだわらない名君だった。
だが、跡継ぎを間違えたことは宣帝最大の失敗だった。
宣帝の皇太子(元帝)は純愛派で、死んだ妻を忘れられず再婚を拒否、
跡継ぎだけでも作ってくださいと連れてきた女性の中から適当に選んだら、
その女の一族から、王莽が出ることになった。
『桃の節句』
劉邦の正妻呂后は、中国史屈指の悪女として有名で、
劉邦の死後、その愛人の手足を切って目と耳を潰し便所で飼ったので、
それを見た二代目恵帝が、やる気をなくしてしまったという。
さらに、上記の郡国制の王を殺して国を潰すことにも大活躍したので、
せめてお祓いを、と温泉に行ったのが桃の節句の発端という説がある。
お祓いしきれないと、本人も自覚していたようだけどね。
『狡兎死して良狗烹らる』
狡兎(狡猾なウサギ)が死ねば良狗(猟犬)も烹て食べられてしまう。
敵国が滅びれば謀臣武将は殺される、という意味。
韓信は最後に呂后に命乞いに行った。(相談する相手を間違っている)
呂后は「私が何とか陛下(劉邦)に頼んでみます」と韓信に約束し、
劉邦のところに行って「なぜ早く殺さないんですか」と責めたという。
韓信は「狡兎死して良狗烹らる」と嘆いたが、あとのまつりだ。
(追加と懺悔)
ごめんなさい。
この逸話は韓信じゃなくて彭越(ほうえつ、元は楚の武将)です。
このへん多数の武将が粛正されたのでごっちゃになりました。
韓信は逆に、呂后を人質にしようとして失敗。
最期は、蕭何の勧めにしたがったら捕まって斬られました。
自分を推薦してくれた蕭何が騙すはずがないと思ったのでしょう。
軍事については天才の韓信も、政治についてはからきしでしたね。
そのうちちゃんと書き直そうと思います。
◎漢の文化◎
司馬遷「史記」:紀伝体を始めた歴史書。
紀伝体:人物中心の歴史小説的記述法。
皇帝の「本紀」と武将の「列伝」からなる。漢書もこれ。
編年体:年代順の歴史教科書的記述法。
孔子「春秋」、司馬光「資治通鑑」
儒教の国教化:武帝時代の董仲舒の進言による。
儒教は儒学になり、五経博士も置かれた。
全国統一やその後しばらくは法家思想の方が有効だが、
統一してしまえば忠誠心を養うため、儒家の五常は有効。